「キャラ作り」に疲れた貴方へ
詩的なタイトルさすがですね
それほどでもない
さて今回はコミュニケーションにおけるキャラ作りについてです
キャラを作って喋るのって大変ですよね?
逆に、素で喋ってるつもりなのに疲労感を覚える人っていませんか?
って思った時に、キャラを作るのと素なのって何が違うんでしょうか?
コミュニケーションとは疲れるものなのでしょうか?
そういったところを深堀りしていきます
キャラと素の境界線
キャラを「作る」と言っているので、素とは違う状態であるはずです
であれば、そのキャラと素の境界はどこにあるのでしょうか?
思うに、これに境界線はなく、グラデーションであると思います
世界は白と黒だけでなく、中間の灰色こそが深いと言いますね
当たり前ではありますが、完全にキャラを作る役者とは違って、
身内/職場/友人/配信などの状況に応じて程度は異なるはずです
一定量「作る」の要素が入ると、「キャラ作り」として認識されるのでしょう
何がグラデーションしているのか
では、何がグラデーションしているのでしょうか?
そう考えた時、これは「気遣いの程度」だと考えます
キャラを作る、というのは究極的には「相手にどう見られるか」です
相手の感情の機微を捉える、ということでもあります
「客観的に見て」どういう風に見えるか、を突き詰めるわけですね
これは、気遣いとあまり差が無いように思います
素のラインは幻想である
これが今回の気付きです
「素」っていうのが幻想なんですよね
僕の話になりますが、基本的に家族と話すのも疲れる感じなんですよね
それは誰と話してもある程度そうで、素で話しているつもりではあるんですが
恐らくこれは「素」ではないんですよね
客観的に見て、リラックスして喋ってるつもりが疲労感があるという人は
「素」のラインが高く、(客観的には)常にキャラを作っている状態かもしれません
この根幹にあるものが「最低限の気遣い」なんですよね
自分の持っている「最低限の気遣い」を他人と比較することで、
素のコミュニケーションの疲労感を抑えることが出来るのではないでしょうか
おわりに
今回は何気ない会話で「配信の時結構頑張ってるよねー」って言われたのがきっかけです
僕にとっては「素」のラインなんですが、傍から見るとキャラのようです
会話するって行為が疲れるって人は、「最低限の気遣い」を見直すと良いかも知れません
なんだかんだ「素」で喋るよりも疲れるけど楽しい、ってなるかもしれません
逆に今までの「素」で喋ったほうが楽しい、ってなるかもしれません
そういう人はそういう人で、会話自体の回数を絞って頑張ると良いのではないでしょうか