なんでも評価されることに疲れた貴方へ

またまた詩的なタイトルさすがですね
令和の松尾芭蕉<ビューティフル・ハーモニー・ポエマー>こと意識たかむぎです

インターネットが普及してだいぶ時が経ちました
インターネットの世界では、「評価」を求めて人々が日々頑張っています

そんな中、「評価」で四苦八苦していたりしないでしょうか?
今日はそのあたりを書いていきます

 

数の暴力

たとえ善意であっても、同じことを色々な人に言われたら嫌味っぽく感じますよね
たとえ悪意であっても、同じことを色々な人に言われたらどうでもよくなるかもしれません

SQLというデータを扱う言語があります
SQLでは、GROUP BYを用いて重複したデータを一意のものとして集約します
思うに、人間の感情処理にはGROUP BYは存在しないのではないでしょうか

本来であれば、集約されたデータはその「集約数」で確度を増すでしょう
ですが、人間はそれぞれを「別」のものと受け取り、
それにより実際とは違った受け取り方をしてしまうのかもしれません

 

数は数である

面白いことに、逆のパターンもあります
動画の高評価・低評価や、RT数や閲覧数などです
これらは、明確な「数」として人間は評価しがちです

ですが、そんな0か1のデータに重きを置いて価値判断して良いのでしょうか?
齎した総合的な効用の総量は、その「数」に「個々人の効用」をかけたものです

そのような事実がありながら、人は数字だけで判断してしまいます
というより、私の指摘は「効用の総量で見ろ」という主張にほかならず、
今回のデータが「純粋な数で見ろ」という意図のあるものというだけでしょうか?

 

評価軸が「与えられたもの」に依存する

つまるところこうです
人間は、「評価が適正であるか」を深く考えないのでしょう
それもそのはず、評価軸そのものが「適当」に「作られたもの」だからです

そもそも評価とは、ある一定の基準においてある一定の表現方法で出すものです
私のレビューなんかも、主観的な基準のもとに「適当」に点数表記しています

物事をどんな観点で評価し、どのように表現するか。
「評価」という行為自体が、人為的に「作られたもの」であり、意図が含まれているのです
だから評価に正当性なんてなくて、受け取るがまま以外の方法が無いのかもしれません

正当性を考えたら、全人類と主観を合わせ、評価基準を議論しなければなりませんからね

 

おわりに

本当の意味での「正しい」評価など、ありはしないのでしょう
だから、評価者の考えた評価軸で”批”評されることを受け入れるのがある種正解でしょう

ですが、これって「評価されること」の苦しさに繋がってないでしょうか?
本当は見えない部分で、見えない物差しで評価されるべき部分があったかもしれません
それを加味しない状態の評価に意味なんてあるのでしょうか?

そうやって考えると、何を言われても「こいつはわかってないだけ」って思えませんか?
これは「おわむぎ流精神安定術」の一つなので、皆さんも是非取り入れてみて下さいね

 

でも俺のブログ記事のリツイートといいね♡はしろよ
俺は“”””正しい評価””””に飢えてるんだ

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