「理論派」と「感覚派」の違い
皆さんは「理論派」と「感覚派」って聞いたことはありますか?
これは物事における上達の手法というか傾向に関連する表現で、
なんというか「どのように課題を分析するか」を指します
今回は「理論」と「感覚」について思うところを書いていきます
いつもの如く根拠はありません
理論派と感覚派
ざっくりと、理論派と感覚派について説明するところから始めましょう
その名の通り、理論派は「理論」から入り感覚派は「感覚」から入ります
例えば、理論派は既に存在している上達論から入ります
もしくは、そういった攻略情報を調べるところから入ります
起こった事象を根本原因まで分析し、理論化します
対して、感覚派はとりあえず行動することから入ります
もしくは、今までの経験から良かった行動を選別します
起こった事象を一連の流れとして記憶し、引き出しやすくします
雰囲気でそれっぽく分類するならこんなところでしょうか?
どのようにアプローチするか?
さて、ここでは「どのようにアプローチするか」を少し分析しましょう
結局のところ、意識高く言うならどちらも「PDCAサイクル」であり、
その要所を「どのように」クリアするか、が派閥の差異では無いでしょうか
理論派は、既存情報や以前の分析をもって「計画」を立てます
そして、その結果を論理的に……つまるところ、明確な法則レベルまで落とします
感覚派は、以前の経験をもって「計画」を立てます
そして、その結果を「大局的に」記憶します
これは、「上達に関する抽象度が違う」と言えるのではないでしょうか
ここでは抽象度、というより「解像度」の方が正しいかも知れません
アプローチの選択基準が異なる、ということですね
感覚派も理論派も、ほぼ同じ
理論派だって、最後の分析は結局「理論の後付け」で「完璧な理解」とは程遠いでしょう
感覚派だって、「大局的に正しい」かどうかは「比較分析」の上で成立しているはずです
結局、どちらもやっていることは「問題発見」と「課題解決」です
ただ、「論理的に推測が難しい事象」はアプローチの解像度を高くしても無意味です
また、「推測が容易な事象」は解像度を低くしたら非効率極まりないでしょう
そして、それは「感覚派」も「理論派」も分かっていると思います
だから、「曖昧なグレーゾーンをどのように解析するか」が本当の差分なのです
最適な解像度が分からない場合にのみ、「理論派」「感覚派」が生まれるのです
例えば、格ゲーにおける「コンボ」なんかは「最適解」の基準が明確です
例えば、格ゲーにおける「立ち回り」なんかは「最適解」が分かりにくくなります
後者の中でも、選択肢が多いゲームのほうが最適解は分かりにくくなります
ところでコンボ選択において、感覚ってあり得るでしょうか?
明確な「仕組み」があって、「解」があるのですから、論理的に分解する以外ありません
だから、こういうシンプルな仕組みには高度な分析そのものが存在しません
ただ、例えば認知負荷が高くなるコンボ「判断」になってくると、
成功率と天秤にかける必要があるなどの「変数」が混ざってくるようになります
このレベルになって初めて、上記のような分析が必要になってくるのです
感覚派は天才で、理論派は凡人
さて、ここまで話したところで昨今僕が感じるある「風潮」があります
「感覚派」で上手くなるのは天才。そうでない凡人は「理論派」なアプローチをすべき。
こういったもので、よくyoutubeの上達動画なんかの枕詞になっている印象です
あえてここで僕が触れた、ということでお察しの方もいるかと思います
やはりというか、僕は全くそう思いません
前述のように、「曖昧なグレーゾーン」にこそ「理論派」「感覚派」があります
そして、少なくとも上位5%より下において、高度な分析は一切要求されません
だから、大半のケースにおいては「上達方法そのもの」に問題があるのです
要するに、「ちゃんと回数やる」のと「ちゃんと考える」をすればいいだけです
「理論派」も「感覚派」も、ちゃんと回数やっているしちゃんと考えているはずです
また、基礎レベルにおいてはどちらも似通ったアプローチになると考えます
もっと言えば、「理論」として「普遍的に」述べられるような事象は、総じて浅いです
それは「本質的な理解」を要求しない、一般的な文脈で伝えられるものだからです
つまるところ、「理論」というのは「本質的な理解」がなければ、ただの「基本」です
だから、理論で上手くなる……のではなく、ただ基本を勉強しましょう、という話なのです
そして基本レベルであれば、感覚とか理論とか関係なく、回数が解決します
「天才肌」は普通に考えながらやることに慣れているだけなのではないでしょうか?
よくある勘違いを生むのは、「思考」の「強度」のデフォルト化、でしょう
マッチョの「軽く運動しただけ」と、百貫デブの「激しい運動をした」、みたいな話です
思考は見えないからこそ認識し辛いですが、実際はこれと似たことが起きているのでしょう
おわりに
ということで終わりです
個人的には「理論派」「感覚派」という概念が、体のいい「逃げ道」になっている気がします
それは、「無<試行/思考>派」の拠り所、とでもいうべきでしょうか?
自分は理論派だから、いろいろ調べて正しいものだけを実行する。
自分は感覚派だから、回数をひたすらこなさないと理解が出来ない。
回数やって上手くならないから、理論派アプローチとしてコーチングを依頼する。
そういう風に、自身で可能性を狭めているのが残念でなりません
上位5%くらいは本気であれば誰でも、どんな方法でも行けるはずです
自らをラベリングして「霜踏み」する前に、上達そのものに向き合ってみては如何でしょうか
そもそも、最終的にアプローチなど似たようなものになるはずです
どれだけ他人より考え、深く分析し、時間を費やしたか。
理論とか感覚で二分出来るような単純な概念で、上位1%を切ることはできないでしょう