「vtuberの推し活」に対する「謎の違和感」は何なのか?
どうもお久しぶりです
今回はとっても炎上しそうなタイトルで語っていきたいと思います
たぶん誰も見ていないので炎上はしないと思いますが、
炎上しても広告収入がないので、あんまり得しないので荒らさないでくださいね
でも炎上してアクセス爆伸びしたら広告をしれっと入れるかもしれませんのでどうぞよろしく
大前提としてのスタンス
まず私のスタンスですが、あんまりvtuber文化や推し活文化に興味がありません
そういった人間からのアプローチであることを大前提にお願いいたします
ただし、「vtuberコンテンツ」が「エンタメ」として優れている、という点は合意します
また、本記事における「推し活」は、主に「vtuber」などの「人がいるもの」を指します
というのも、アニメキャラ等の推し活などは本記事の論旨と大きくズレるからですね
なお、「vtuberに中の人はいない」っていう原理主義者はお帰りください
なんとなく感じる違和感:推し活は依存なのか?
さっそく本題に入っていきますが、なんか私は「推し活」に対する「違和感」があるんですよね
それには、大きくいくつかの理由がありますが、特に若い層に対しての違和感があります
まず一つ目の違和感ですが、それは「人生の目的の外部化」を正当化しているということです
それも、人生の目的を外部化する必要のない若年層が、です
私は「推し活」を、「誰か応援すること」により、「人生の目的の外部化」であると考えています
自分の人生や幸福よりも、推しの成功を祈るその姿は、献身的であり利他的です
それは最終的に、自分の人生を「他者の成功」に依存させる……要は外部化であると考えます
で、今って大々的に推し活が市民権を得ていますよね
その中には、いい年したおっさんだけでなく若年層も含まれます
私は、外部化そのものは悪ではないと考えています
というのも、人類における最高の発明の一つである宗教だって似たようなものです
なんなら、自分の人生の評価軸を他人に握られている人も、似たようなものでしょう
ですが、それを「若年層で」やってしまうことに、個人的には違和感があります
というのも、人生ってどっかで「自分に期待する」ことが出来なくなると思うんですよね
結果、親が子を育てて次に託すように、人生を「継承」するフェーズに移っていくはずです
思うに、大多数の人間は「死ぬ瞬間」には「人生の目的を外部化」し終えているはずです
だから、50過ぎて引退直前になったりしたとき、外部化をしない方が不健全だと思っています
ですが、若年層であれば話は別なんですよね
若年層は、むしろ外部化してしまったら「人生の推進力」を他人に握られてしまいます
これが若年層の活力に対して不健全であると考えるからこそ、違和感があるのでしょう
なんとなく感じる違和感:なぜ宗教はいいのか?
その上で、更に少し考えてみました
実は私、「宗教」であれば、そんなに大きな違和感がないんですよね
ここでいう「宗教」っていうのは、「人生」が「宗教」になっている人も含みます
ただただ神を信じるという宗教ではなく、例えば「社会から認められる」みたいな話ですね
このあたりの考え方の詳細は記事を貼っておきます
ではなぜvtuberの推し活はダメで、宗教はいいのか?
その答えは、大前提で述べた理由にあります
それは、「人がやっていることだから」です
これだけだと意味不明なので、少し補足します
上で言う「宗教」……広義・狭義のもの両方において、これは「エンドコンテンツ」なのです
人生における、エンドコンテンツになり得るものなのです
宗教というのは、そう簡単に否定されるものではありません
「狭義の宗教」は社会で一定の地位があり、それを否定する材料が現状は存在しません
「広義の宗教」であっても、個人の社会的承認の価値観が歪むことはあまりありません
だから、一生かけてそれをゴールにしたとして、ずっと続けられるコンテンツなんですよね
言い方は悪いですが、「夢から覚める要素がない」のです
それに対してvtuberなどの推し活は、ふとした理由で消えることが多々あります
つまるところ、「安定したエンドコンテンツ」であることが担保されていないんですよね
だから、これを「エンドコンテンツ」のように扱う人に対し、違和感を覚えていたのです
人それぞれだけど、市民権を得ていることが違和感
で、じゃあこれ人それぞれだから勝手に違和感覚えてろよ、って話じゃないですか?
それはまあ正論なんですけど、そういう正論に対しても違和感があります
それは、「市民権を得ていること」です
こういう、「覚める可能性のあるエンドコンテンツ」っていうのは、普通は市民権を得ません
地下アイドルのおっかけ、キャバクラ、ホストクラブ……
これらのような、依存性が高くエンドコンテンツとして錯覚させるものは「腫物」です
腫物だから、法律で規制されていたり、細々とこっそりとやっていることが多いです
そんな中、「推し活」は「普通に」宣伝されているのが「業態として無責任」と感じるんですね
ホストクラブへの依存を「いいもの」と宣伝したら、それは違和感があって当然でしょう
といっても、「推し活」は極論大本が「面白いコンテンツ」から来ているものでもあります
だから、大多数の人間はこの記事で言う「エンドコンテンツ」みたいなハマり方はしません
適度に、いい意味で分別のついた「推し活」が出来ていることでしょう
そういった意味で、「数の論理」をもって「市民権を得ている」と思うんですよね
なのだけど、他の似たようなビジネスと似た構造を持っているからこそ、危険性はあります
その責任を放棄し、いいところだけをピックアップしているところが一番の「違和感」なのです
おわりに
って感じで、思っていることを書きました
まとめると、
- vtuberは宗教と違ってエンドコンテンツにならない
- だからこそ、性質としてはキャバクラやホストと似ている
- キャバクラやホストは市民権を得ていないが、推し活は得ている
- それは、依存患者の割合からして数の論理で裏付けられているように思う
- その裏で、依存患者をきっと生み出している
だから、個人的にはその「責任」から逃げないでほしいな、と思っています
良いところだけ宣伝するのではなくて、依存患者を生み出す業態であることを自覚し、
もう少し広い目線で(例えば広報のやり方など)責任を果たしてほしいと考えています
今推し活にハマッている人は、「人生を外部化していないか?」を考えてみてください
そうでないなら、適切な距離感でそのまま続けていただければと思います
問題は、その問に対し「人生を外部化していた人」ですね
そういった人は、まだ若いのであればぜひ“自分自身”を推してみてはどうでしょうか