昨今のゲームは「浅い」からすぐ飽きられるのか?

最近の格闘ゲーム……もとい対戦ゲームあるあるですね
ゲーム自体は浅く、分かりやすく、そして高頻度で更新する。
そんな昨今の事情に辟易としているヘビーゲーマーも多いかもしれません

最近のゲームは、数年スパンから数か月……ひいては数週間で更新されます
そして、タイトルの熱が持つのは体感で数か月程度です
昔のように、1タイトルが数年プレイされ続けることはほぼありません

僕は以前より「令和にブレイブルーが出たらどうなるか」を妄想してきました
昨今の自由度の低いゲームではなく、自由度の高いゲームが出たらどうなるかと。
そしてそれはどのように受け入れられ、どのような遷移をするのか、と。

そしてその夢は一瞬だけ叶いました
BBCFのネットワークテストにより、ブレイブルーは帰ってきました
初日は大盛り上がりしましたが、ストリートファイターくらいの人権は持てなさそうです

やっぱりブレイブルーは浅くて、ストリートファイターは深いんでしょうか?
ゲームがすぐ飽きられる理由は何なのでしょうか?

 

情報化により、攻略の速度が高まった

情報化により、昨今のゲームの攻略速度は飛躍的に高まりました
その当日にプロゲーマーが何時間も配信し、youtubeには大量に動画が出る。
そんなことが当たり前になってきた、そのように思います

だから、攻略がすぐにされて飽きられてしまうということですね
……ですが、これって「見せかけの攻略速度」だと思うんですよね

本質的なキャラ対などの「習熟を要するポイント」の情報発信はありません
というか、発信の費用対効果が悪すぎて誰もそこまでは発信しません
あくまで共有されているのは「すぐに分かるレベルの浅い部分」でしかないのです

これって、たぶん昔と変わってないんですよね
深いキャラ対やコンボ判断はいつだって超上級者が非言語で持っているものですし、
言語で語られることがあってもそれは比較的クローズドな環境での話でしょう

だから、情報化によって失われたのは各々が感じていた「俺が発見した感」だけです

 

「俺が発見した感」が無くなった

ゲームにおける面白さとして、「攻略」は確固たるものだと考えます
その中で、連携やコンボを開発するのも攻略と言えるでしょう
「発見した感」を最速で「取られて」しまうのは、プレイヤーのやる気を削ぐはずです

ですが、そこまで「取られた」ようなレベルではないと思います
10年前もtwitterで多くの人が研究し、したらばで共有をしていました
なんだかんだ、「発見した感」で損するのはすぐにやめるライトユーザだけでしょう

それに、シーンが熱くなるのは「その程度」の発見で満足しない層が居るからでしょう?

 

ゲームが浅くなった

ここにきてタイトルの話ですね
確かに最近のゲームはとても浅くて、すぐに調べることが無くなります
だからこそ、昔のブレイブルーが出たらどうなるのか、って思うわけです

ですが、残念なことにブレイブルーは覇権を握れませんでした
メルブラもあまり長持ちしそうにありません
というか、「浅い」「深い」ってそもそも何なんでしょうか?

ストリートファイターって、弱キャラがガチで人権ないくらい動きの幅は無いですよね
それでも、プロはそこらへんの人には100%負けないでしょう
であれば、なんだかんだ「深い」のではないでしょうか?

動きの幅や選択肢の多さを「深い」と取るか、修行の末の練度を「深い」と取るか。
結局「価値観の相違」でしかないのかもしれませんね

 

ゲームに意義を求めだした

で、結局のところこれなんじゃないかなって思います

ゲームで飯が食えるし、ゲームが上手いことはステータスになってきた。
だから、ゲームをやる事に社会的意義が無いといけなくなったのです
それが99%のプレイヤーに関係が無い事だと分かっていても、です

社会的意義とは、現代においては「注目度」です
金を生むのも、名誉を齎すのも、すべては人の「数」です
数の取れないゲームに「意味」はありません

つまるところ、ゲームが浅くなったから移り変わりが激しくなったのではありません
視聴者の飽きに合わせてゲームが移り変わる必要があるから、浅くするのだと思います
先に来るのは「視聴者」なのではないでしょうか

結局は「プレイヤーの熱」ではなく「ギャラリーの熱」が「シーンの熱」になったんですね
それはビジネス化が齎した、ごく自然な現象であるとも言えます

 

おわりに

もともと、研究者気質の変人しかゲームに熱中していなかったのだと思います
だから、その人たちが研究し尽くすまでは熱が続いたし、深いゲームが求められた。
10年前は、そんな時代だったのでしょう

今は、ゲームは社会的な娯楽で「意味のある」ものです
意味もなく研究するオタクの道楽ではなく、興行なんですよね
盆栽からサッカーになったんですね

 

ですが、今回のブレイブルーで思ったことがあります
なんだかんだ、ゲーム性って今の時代関係ないんじゃないですか?
結局、社会的意義……視聴者数が取れるのならいいんじゃないですか?

そしてその視聴者数って、ゲームの難しさとか面白さと関係ありますかね?
数字を継続的に取れるかって、もはやゲームではなくマーケティングの問題であり
「数字の一強状態」を作ったゲームが「深く」「最高」のゲームでは?

これは「面白さ」までもが数字で判断される現代社会の闇、なのかもしれません
「いいものが売れる」のは昭和の時代で、今は「数字があるものがいいもの」なのです
というか、技術進歩によりもはや大概のものは最低限「いいもの」ですからね

 

とここまで書きましたが、実はこういうことかもしれません

「プレイヤーの熱」=「シーンの熱」とした場合、実は状況は変わっていない。
「ギャラリーの熱」=「シーンの熱」とした場合、変わったように”錯覚”している。
その末に、「ギャラリーの熱」=「プレイヤー自身の熱」であると勘違いするのです

そうだとしたら、数字に支配されているのを実感出来て恐ろしいですね

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