お年玉文化の「意義」とは

日本には、年始に年長者がお金を渡すという謎の文化があります
お年玉って言うんですが、「この謎文化要らなくね?」って思いませんか?

私は、子供心にこの文化が嫌いだったんですよね
それは成人しても変わらず、そして社会に出てしばらくは変わりませんでした
ですが、ある日を境に「お年玉文化」を認めるようになりました

ということで、今回はお年玉について垂れ流していこうと思います

 

なぜお年玉が嫌いだったのか?

子供心にお年玉文化が嫌いだった、と先程述べました
というのは、「お年玉」を通して「主張」されているように感じたからです
その主張とは、「経済的な自立をしているが故の、社会的優位性」です

渡された瞬間に、そういった「社会的優位性の主張」をされている感覚に陥るのです
私は子供の頃からお金を消費する遊びはほぼしておらず、困っていませんでした
ただただ「自分の価値」が「相対的に落とされた」気になるのですから、嫌だったのです

まあ実際のところ、扶養対象の家族という時点で、お年玉の有無で評価など変わりません
ですが、そう「儀式的」に感じさせるという点で、「気に食わなかった」のでしょう

周囲の大人からしたら、本当に可愛げが無いですね
ポケットマネーを渡しているのに本心がこれだとしたら、悲しいものです

 

なぜお年玉は「マシ」なのか?

そして僕は社会人になり、渡す立場になって少し考え方が変わりました
相変わらず「富の主張」をしているみたいで、嫌悪感はありました
それでも、なんとなく「富の再分配」みたいな意義を感じ始めました

使わないお金を、渡すことによって「再分配」する。
それによって喜んでもらえて、なんとなくいい気分になる。
深く考えなければ、まあ「お金を払って気持ちよくなる」で終わらせられます

でも、冷静に考えるとやはりおかしいですよね
再分配も何も、自分が億万長者という訳ではありません
経済母体は渡す先の単位で考えられるべきで、その子供ではありません

とはいったものの、お金を「無駄に」使わされる訳です
だからこそ、そのように考えて追及しないのがきっと「丸い」のでしょう

私が子供心に感じ取ったあの「主張」みたいな感覚が、これなのかもしれません
自分が「渡す側」という「優位性」を感じないと、やってられないのです

 

なぜお年玉は「良い」のか?

そして僕は、最終的にお年玉の「意義」に気付くことが出来ました
これは、「キャッシュフローの差」を活かした「社会的効用の総量を増やす行為」なのです

どんな人でも、日本であれば「社会人」のキャッシュフローは、子供より多いはずです
最低賃金でも月に15万円ほどは、お金をやりくりしているでしょう
子供がどんなにバイトを頑張っても、正当な手段であれば10万にも満たないでしょう

それがそのまま、お金の「価値」になります
社会人にとっての数千円など、飲み会一回で終わる額です
ですが、子供にとってはかなりの大金になるはずです

そのお金で生み出せる「効用」が、子供の方が大きいのです
同じ「お金」でより多くの「効用」……つまり「社会全体で見たらプラスになる」のです

でも、だからといって雑にお金を渡したら金銭感覚が狂いますよね
それを「合法的」に実行できるのが、お年玉というわけです
特別感を演出することで、金銭感覚を麻痺させないで実施出来るのです

お年玉というシステムは、社会全体を「豊か」にしているのです

 

おわりに

キャッシュフローの差を活かした、社会をより豊かにするための仕組み。
そう考えてから、私はお年玉に「意義」「価値」を感じるようになりました
それは予め「物品」や「サービス」に変換するより確実で、ブレがありません

だからこそ、私はお年玉を必ず使い切るように依頼しています
お年玉を子供のうちに「消費」してもらえないと、意義が達成出来ないからです
キャッシュフローが社会人のそれになった瞬間、「ただ金をあげただけ」になります

実際のところ、金を渡すことが愛情表現の手段であるというパターンもあるでしょう
ご老人が孫に渡すお年玉なんかは、そういったものがあるのかも知れません
この点をもって、意義を感じる人もいるでしょう

「現金を渡す」という行為そのものが「歪」だからこそ、様々な意義が「生まれそう」です
こういうのが「ロマンがあって良い」、とでも言うのでしょうか?

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